ダンブルドアは悪党か? 賢者か? それともハリーを我が子のように愛した老人か?
ネットでは、ダンブルドアクズ説、ダンブルドア悪人説などが飛び交っている。
そこで今回は、ハリポタファンの私がこのかわいそうな優しいおじいちゃんを何とか弁護してみようと思う。そして、ハリポタの中にちりばめられたダンブルドアとハリーの感動シーンをまとめたいと思う!
真実は『ハリーポッタと謎のプリンス』原作本にあり
ダンブルドアがハリーに愛情を持っていた証拠
ダンブルドアは、最終的にハリーを犠牲にしようとしていたのか?
答えはイエスである。
だからこそダンブルドアはハリーに愛着を持とうしなかったのか?
それも答えはイエスである。
“愛着を持つまいとした”とダンブルドア自身が言っている。スネイプの根も葉もない言い方を借りるなら「殺される豚のように育てた」のである。
でも、だからと言って、ダンブルドアが策士だったとかハリーに非情だったと決めつけるのは早計ではないだろうか。なぜなら、ダンブルドアは、自分でも予測できないほどハリーを愛してしまったからである。
ダンブルドアはハリーを愛おしく思いすぎた
“きみをあまりにも愛おしく思いすぎたのじゃ”
ダンブルドアはさらりと言った 。 ―「不死鳥の騎士団」
「不死鳥の騎士団」で上記のようにダンブルドアはハリーに語った。この意味は「愛により計画を実行するのが困難になった、失敗する率が上がってしまった、すまない」ということだ。
シリウスの死は僕のせいだ、と自分を責めるハリーに「いや、すべてわしのせいじゃ」と語る一節である。
愛は目を曇らせる。
わしには人を愛する資格なんてない。
これは、両方ともダンブルドアが人生から学んだ教訓なのだ。
ヴォルデモートを倒す計画を実行するのだって、ハリーを愛していなかった方が楽だった。でも、ダンブルドアはハリーを愛してしまった。ここが重要である。
ダンブルドアが言えなかった秘密
ダンブルドアは予言のことを知っている唯一の人物で、ハリーにいつかは話さねばならない立場にいた。
その予言とは『どちからがもう一方の手にかかって死ななければならない』というものである。
予言によれば、ハリーはみんなの犠牲となり命を捧げる立場にある。少なくともヴォルデモートと直接対決する運命にある。
ダンブルドアはこのことを何度もハリーに話そうとした。『ハリーポッターと賢者の石』の頃から話そうと考えていたという。ハリーがホグワーツに入学したての1年生の頃である。
でも、ダンブルドアは、その度にハリーがかわいそうになって話せなかった。ダンブルドアはかわいいハリーが今幸せならそれを壊したくない、そう思ってしまったのだ。
ダンブルドアはこの秘密をシリウスの死後まで、つまり『ハリーポッターと不死鳥の騎士団』まで持ち越した。ハリーは6年生になっていた。
ダンブルドアは「未来という不確かな時に大勢の生き物や人間が死ぬとして、わしがそれを気にするか?」という発言をしている。それよりも、1人の大切な人の方が重要に思えた、と。
これは誰にでも分かる気持ちではないだろうか。知らない大勢の幸せよりも大切な1人の人間の幸せの方が大事だ。
いつでも1人の命より大義を優先するように見られているダンブルドアだが、そうではなかったのである。
ダンブルドアは賢者なので、自分は感情に惑わされないと思ってしまったのだろう。最初は大義を優先しようと考えていたが、ハリーが可愛くなってしまい、それが難しくなったということだ。
大勢の人の命より、ただ1人の大切な人の命が大切。こう思ってしまうのは、1人の老人の人間らしい感情だったのではないだろうか。
ハリーがダンブルドアに忠実と聞いて、涙するダンブルドア
『ハリーポッターと謎のプリンス』にはこんな場面もある。
魔法大臣スクリムジョールに“君は骨の髄までダンブルドアに忠実だな”と言われて、ハリーはその通りです、と認める。
これをあとから聞かされたダンブルドアは、一瞬、涙を見せる。ハリーが示してくれた自分への忠誠心に対して、つい泣いてしまうのだ。
これは、親が息子に抱くような愛情の証である。
もし、ダンブルドアがハリーをただの「計画の駒」だと思っていたら、このシーンは涙ぐむところではなく、ほくそ笑むところである。
同性愛者のダンブルドアだがハリーとの関係性は?
下世話な人は、こんなことも聞きたくなるかもしれない。
「本当に親心みたいな純粋な愛情だったの?」と。ダンブルドアは同性愛者で、強い意志や才能に惹かれる面もあり、かつてグリンデルバルドに恋していたことがあったためだ。
いや、さすがにダンブルドアとハリーでは歳が離れすぎている。
そう思ったあなたは健全だが、原作の中では「魔法界のマスゴミ」ことリータ・スキーター女史が「ハリーとダンブルドアは不適切な関係だった」と書き散らした。英国もしくは魔法界のゴシップでは一応成り立ってしまうことらしい。恋愛に性別も年齢も関係ないということだ。
リータ・スキーターの記事はもちろんガセである。ダンブルドアの死後、この記事を読んだハリーはカンカンに怒っていた。
恋愛なら恋愛でもかまわないけど、ダンブルドアがハリーに抱いた愛情は、父親や祖父のような愛情だったと推測できる。
『ハリーポッターと呪いの子』でも、ハリーがダンブルドアのことを「父親」と形容するシーンがある。ちなみにその際、大人になったハリーとダンブルドアは、時が経ってあらためて、お互いのことを「父子のように愛していた」と確認し合っている。
ハリーにとってダンブルドアとは?
これまで見てきた通り、ハリーは「骨の髄までダンブルドアに忠実」であり続けた。
ハリーにとってダンブルドアは、誰よりも尊敬してきた、頼りにしてきた師である。
が、いわゆる物語の師弟関係(スターウォーズで言うならヨーダとルーク?)よりは、もう少し家族寄りな気がする。
ハリー目線で言うなら、シリウスがイケてる父親、ダンブルドアは優しいおじいちゃん代わりと言ったところだろうか。
なぜなら、ハリーはダンブルドアに結構たて突くし、わがままも言っている。他の先生や不死鳥の騎士団員たちの前でハリーはあまりわがままを言わない。ダンブルドアとハリーはそれだけ心の距離が近く、信頼し合っている証拠だ。
周りがダンブルドアをどう評価しようと、ハリーにとってダンブルドアは「優しいおじいちゃん」だったのだろう。
ダンブルドアとハリーの感動シーン
さて、長々考察してしまったけど、最後にダンブルドアとハリーの感動シーンを紹介しよう。
『ハリーポッターと謎のプリンス』にて
「謎のプリンス」ではダンブルドアとハリー2人の場面が多い。ダンブルドアが成人に近づいたハリーを対等のパートナーのように扱い始めるからだ。
物語の冒頭、ダンブルドアはハリーに言う。
“今夜は襲われることを心配せずともよかろうぞ”
“どうしてですか、先生?”
“わしと一緒じゃからのう” ―「謎のプリンス」
かっこいい! 自分がいれば絶対安心という自信。ダンブルドアかっこいいと本当に思ったお気に入りシーンである。
そしてさらに、物語の終盤、これと対になるセリフが出てくるのだ。
“先生、大丈夫ですよ…(中略)…心配しないでください”
“わしは心配しておらぬ、ハリー”
“きみと一緒じゃからのう” ―「謎のプリンス」
これがダンブルドアとハリーの最後の旅になってしまった。
ダンブルドアはこの時、自分の死を感じていたが、ハリーと一緒で安心していた。
最初は自分が一緒だから安心だと言ったダンブルドア、その背中のかっこよさ。
そして、最後はハリーを信頼し、安心して、バトンを渡すように亡くなった。
ハリーポッターシリーズの中でも大好きなシーンである。
*
「ダンブルドアが元凶」みたいな意見もあるものの、個人的には、ダンブルドアの善良さを私はいつまでも信じたい。
ハリーは原作の中でたびたびダンブルドアのことを愚痴っていた。「どんな悪人でも信頼しようとするのがダンブルドアの悪い癖だ」と。私たちもそれを見習ってダンブルドアにだまされてみてもいいじゃないですか。
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