『ノートルダムの鐘』フロローの実在モデル・こじらせた恋愛観の理由

今回は『ノートルダムの鐘』のディズニーヴィラン・フロロー判事について、くわしく考察をしていきたいと思います!

まず、フロローファンなら気になる実在のモデル人物についての予想。それから、フロローの権力と役職の正体は? なぜ、フロローは魔女に愛憎の執着を見せていたのか?

映画のキーワードになっている「魔女狩り」をもとにオリジナル解釈してみました。

フロロー判事©️tamacoθ
フロロー判事©️tamacoθ

【予想】フロローのモデルは宗教裁判官のハインリヒ・クラーマー

ハインリヒ・クラーマーは魔女狩りを始めた人物

ハインリヒ・クラーマー(ハイリンヒ・クラーメル)は、15世紀ドイツの宗教裁判官。異端審問の経験を生かし『魔女に与える鉄槌』という魔女狩りの指南書にあたる本を書いた。

魔女狩りの指南書『魔女に与える鉄槌』
魔女狩りの指南書『魔女に与える鉄槌』

時代背景と役職の類似

  • ハイリンヒ・クラーマーが魔女狩りを始めたのは1485年。ノートルダムの鐘の原作『ノートルダム・ド・パリ』の舞台となったのは1482年。前者はドイツで活動し、小説の舞台はフランスだが、どちらもヨーロッパ全土で魔女狩りの起こった同時代に当たる。
  • ハイリンヒ・クラーマーの役職は宗教裁判官。異端審問官として、魔女狩りを推進。拷問や弁護の禁止など、一方的で容赦のないやり方は、当時にしても非法で卑劣といえた。
  • フロローの役職は、大聖堂の助祭長。カトリック教会では司祭に次ぐ役職。ディズニー版では「判事」であり、司祭とは対立してるように描かれている。
  • 原作とミュージカル版でのフロローは助祭長で、聖職者としての色が強い。ディズニー版『ノートルダムの鐘』のフロローの役職は、裁判官であるハイリンヒ・クラーマーにより近い。

女性へのコンプレックスが魔女狩りにつながった

フロローのモデルは明らかにされていないが、ハイリンヒ・クラーマーが書いた『魔女に与える鉄槌』の一節は、映画内のフロローのセリフを彷彿とさせないだろうか?

“女はその迷信、欲情、欺瞞、軽薄さにおいてはるかに男をしのいでおり、体力の無さを悪魔と結託することで補い、復讐を遂げる。妖術に頼り、執念深いみだらな欲情を満足させようとするのだ” 「ユリイカ」より引用
(参考文献:「奇書の世界史 歴史を動かすヤバい書物の物語」より)

科学が発展した今となっては理解出来ない「魔女狩り」の心理はこういったものだったのだ。

フロローのモデルは実際には複数いたと考えられるが、フロローが魔女狩りを行っていた時点で、魔女狩りの発祥者ハイリンヒ・クラーマーと同じ思想を持っていたことだけは明らかである。

なぜ、フロローは魔女に執着したのか?

災害や疫病は「魔女」のせいだった

  • 魔女狩りが生まれてしまった15世紀はヨーロッパの暗い時代。ペストが流行し、戦争や天災の恐怖もあった。
  • 科学の発展していない時代、災いはどんなものでも「誰かの仕業」であった。悪いことが起こった=誰かに呪いがかけられたと考えるのである。古い時代までさかのぼれば生贄の儀式。そして、15世紀ヨーロッパでは魔女狩りである。
    人々が社会情勢に対して抱いていた不安のぶつけどころが「誰か」であり、その誰かは西洋人が潜在的に恐れていた魔女や妖術使いだとされた。
  • 図式としては、社会不安→パニックになった市民たちが魔女に当てはまる人物を祭り上げる→フロローのような高官がそれを裁く

今では、魔女狩りは集団ヒステリー現象だと推測されている。

聖職者は禁欲していたため、魅惑的すぎる女性を憎んだ?

  • フロローの楽曲ヘルファイアーには、「♪地獄の炎が この身を焼く♪」とある。恋の情熱の炎でもあるし、罪の地獄の炎でもある。エスメラルダに惹かれることは聖職者であるフロローにとっては罪深きことである。
  • 前述のハイリンヒ・クラーマーの「女は欲情、欺瞞においてはるかに男をしのいでおり……」のくだりにもフロローと同じ葛藤が垣間見える。

この人もエスメラルダのような魅力的な女性に振り回された怒りでもあったのだろうか。そもそも女性に無関心なら、もしくはモテ男で恋した女性が手に入っている人なら、こういった発想にはならない。

こじらせたフロローの歪んだ恋愛観

魅力的な女は悪魔だ

フロローにも実在人物にも共通する点は「男(聖職者)を魅了した女が悪い」という、いわば逆ギレの発想である。

あえて、フロローのフォローをするならば、こうだろう。
おさらいになるが、この時代、すべての災いは誰かの呪いのせいであった。報われない片想いもある意味、病気や災いと言える。動悸や妄想を伴う恋の症状は、実際に病気と診断されることもあるほどだ。この恋あるいは災いが誰のせいかと言えば、男を魅了した女性(たとえば、エスメラルダ)の仕業である。だから、エスメラルダは魔女であり、公に憎んでも処刑してもいい存在なのである。

結局、非モテ男の逆うらみであり、めちゃくちゃな理論だが、当時の理にはかなっていたのかもしれない。

愛されなければ死を

フロローは、ディズニー映画でも原作でも、エスメラルダに「処刑されるか愛をうけいれるか」を迫っている。

もし、フロローが本当に魔女や妖術を信じているのなら、恋人になるよりすぐ処刑するはずである。しかし、結局は付き合いたいという気持ちが隠しきれていない。フロローにとって魔女狩りは口実に過ぎない。自分が恋人になれれば、処刑しなくてもいいのだから……。

フロローは真面目な聖職者か異常者か

フロローの信仰心は本物であり、正義の定義も今とは違う。フロローはフロローなりに聖職者としての責務を果たしているとも言える。

ただ、それでもフロローの女性観が歪んでいるのは事実だろう。実際に原作では、フロローはフィーバスとエスメラルダのあとをつけ、逢引をのぞき見る。

『ノートルダムの鐘』の銅像
これが現代なら、完全にこじらせ童貞のストーカー物語になってしまうところだが、『ノートルダムの鐘』は、聖職者と魔女狩りという宗教色の強い話で、不思議と妖しい魅力を放っている。

参考文献:
Web / wikipedia
書籍 /「奇書の世界史 歴史を動かすヤバい書物の物語」三崎律日

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